ムックの呟き

5日間会社を休むほどの月経困難症をキッカケに子宮腺筋症(子宮内膜症の一種)と診断されました。色々と考えた上で西洋医学による治療は行わず、漢方薬と養生で乗り切りましたー

「正しい戦争」は本当にあるのか(2)

「正しい戦争」は本当にあるのか(1)に書いたよ~に、自分の頭を整理するため、
から、印象に残った部分を引用してみたいと思います(>_<) 『1.「正しい戦争」は本当にあるのか』より。 『悪い政府を追放する平和は、一見するとわかりやすく、正しくも見えるんですが、現実にはとても実現できない。侵略をしたやつはことごとく戦争責任を追及すべきだ、と言えるほど、世界中が戦争をなくすことに本当は熱心なわけじゃないんですよね。こうして、<正しい戦争>と<正しい平和>の追求は、結局どこかの国が倒すことに決めた国は倒されるっていう、すごく恣意的な判断に傾きかねない。 (中略) 結局、戦争をやりたいときに、この国は倒さなければならない悪い国だ、っていうレッテルを貼るだけになる。』 『軍事力の行使の必要な場面が国際関係にあるかないかといえば、残念ながらあるというのがぼくの考えです。(中略) ただその先が一番の問題なんです。(中略)ひとつは兵隊に頼らず、軍事力の行使に頼らないで、状況を打開する方法があるかどうか、できる限りていねいに考えること。(中略) ふたつめには、どのような状況のもとで暴力の行使が許されるのか、またその暴力行使がどんな制約の下に置かれるのか、ということです。正戦論は、(中略)正しくない戦争を否定する議論だったんです。そこで一番大事なのは、戦争の許される<状況>の制限と、戦争で用いる<方法>の制限という二重の制限でした。たとえば、自衛の戦争は許されるという議論は、自己防衛以外の戦争はしちゃいけないよという意味ですし、兵隊でもないふつうの人を殺してもいいなんていう正戦論はない。ところが、いまアメリカなどで唱えられている正戦論はこのふたつの制限がぜんぜんないんです。』 『絶対反戦なのか、あるいは正義の戦争なのか、力の均衡なのか、っていうことにもう1回戻ってみます。 (中略)まず、力の均衡という図式だけで平和を保つことができるかどうかはきわめて怪しいことが分かります。(中略)これでは、平和が保たれるのではなくて、そのときそのときで戦争を先延ばしにするだけです。それにこれじゃあ、軍隊への依存を減らすどころか、むしろ増してしまう。力のバランスで支えられた平和の下では、軍備拡大の競争、軍拡競争が避けられません。そして、軍拡競争自体が国家間の不信を高めてしまうという面もあります。(中略) じゃあ次に、絶対反戦が目的、武器をなくすことが目的だとしましょう。これは目的としては大事なんですけれども、それを実現するためには武器に頼らないで緊張が下がった状態、緊張緩和が保たれるような状況をまず作んなくちゃいけない。そして、ヨーロッパのように、その状態ができたので、軍隊の規模も削減されている地域はあるんです。でも、いまの問題は、そうじゃないとこをどうするか。東アジアのように、冷戦時代の対立が残っているために、軍隊への需要が高いところ、またアフリカ中部のように戦争が続いていたり、中東みたいにいつ壊れるともしれないカッコつきの平和もある。(中略) そしていま正義の戦争っていう政策というか、政策の放棄が見られるのは、そんな紛争地帯への対応です。安定した均衡状態もなく、また武力放棄を受け入れる勢力もないようなところに対して、先制攻撃を冒してでも悪いやつらを追っ払おう、っていうわけですね。でも、正義の戦争っていう言葉だけでは実はなにも語ったことにならないんですよ。自分たちが暴力を駆使するのか、誰がどう使うのか、っていうことについての<法の支配>を考えなくちゃいけない。いまの世界がぐちゃぐちゃになっちゃってるのは、アメリカというひとつの国の軍隊が正義を代行するって事態になってるからですよね。ここで法による支配が実現しているとすればそれはアメリカの法に従っているということになる------国際刑事裁判所の実例をご覧になれば分かるように、米国は国際的な法に従いませんからね。そうなるとアメリカ側から見ると法に従っている正義の戦争でも、外国から見れば無法な支配以外のなにものでもないっていうことになっちゃう。』 『反戦という目標に向かって戦争の可能性を下げる。軍隊に頼らないとアブナいって、みんなが考える状態をひとつひとつ変えることで、軍隊への依存を減らすわけです。』 『地域紛争への介入っていうと、すぐ自衛隊を送るとかきつい話になりますよね。でも、紛争のローカルな現場で必要なのは、その土地の人に信用されることです。たとえばね、牛が1頭いなくなった。もうそれだけで、やつらが泥棒したんだ、やっぱやっつけるしかない、なんてとこまでいっちゃうんです。これだけで本当に内戦が再発しかねない。で、平和活動っていうのは、牛泥棒をきっかけに内戦がぼっ発しないよう、両方の間に入って話を聞く。こいつ、あいつらに甘いんじゃないかなんて疑ってるおじさんを前にして、そうかそうか、って話を聞く。次にあっちの方に行ってまた話を聞いて、ともかくこの牛泥棒事件は俺が預かった、すぐ手を出したりするなよ、っていうような、そういう作業なんです。ぼくは抽象論は嫌いなんですよ。兵隊送るべきかそうじゃないか、っていう一般論じゃない。牛泥棒のおっさんのところに話を聞きに行く国連の人が、ピストル持っちゃいけないって、それはナンセンスでしょう。だからってバズーカ砲を持ってけばいいっていう問題でもない。信頼関係なんですよ。 (中略)すっごくローカルで、貧乏なとこで起こってる紛争のひとつひとつに向かい合うことがいま一番大事だって思うんです。空爆で殺したり、政府を潰したりするんじゃなくて、壊れちゃった政府と壊れた社会の再生のためにがんばること。大戦争よりは牛泥棒事件の仲裁みたいな、すっごく地味で時間のかかることです。』 『戦争を避けることができるという可能性が示され、やはり戦争はモラルに反するという考えが共有されるときに、初めて安定した平和が実現するんだと思います。その意味で、<正しい戦争>という概念は、平和とはやはり逆行してるんですよ。 もうひとつ念を押しておかなくちゃいけないのは、脅せば秩序が保たれるどころか、脅したら戦争になるかもしれないということです。自分が脅かされるから脅す、でも脅された相手はその脅しに反応しますから、悪循環が生まれます。』 『現実の分析っていうのは、目の前の現象をていねいに見て、どんな手が打てるのか考えることです。そのとき、すぐ兵隊を送るのは短絡的です。(中略) 平和って、理想とかなんとかじゃないんです。平和は青年の若々しい理想だとぼくは思わない。暴力でガツンとやればなんとかなるっていうのが若者の理想なんですよ。そして、そんな思い上がった過信じゃなく、汚い取り引きや談合を繰り返すことで保たれるのが平和。この方がみんなにとって結局いい結論になるんだよ、年若い君にとっては納得できないだろうけどもっていう、打算に満ちた老人の知恵みたいなもんです。』 お仕事をされてる皆さんは、おそらく、「WinWin」って言葉を聞いたコトがあるんじゃないでしょうか?? 「WinWin」とは、『自分だけが得するんじゃなくて、相手にも得をさせて、自分も得をしよう』という考え方。 この考え方って、ワリと一般に浸透していると思うのですが、結局、国と国のお付き合いにおいても、「WinWin」という考え方が大事なんじゃないかと思います。