という本を読みました(^.^)
本を開いて、まず、字が大きいコトにびっくり(>_<)しました。
この本は、
理論社YA新書「よりみちパン!セ」という、「中学生以上すべての人」向けのシリーズのひとつのようです。
「中学生以上すべての人の」とあるように、中学生でも分かるように書いてありますが、内容は充実していて、わたしには、とても勉強になりました☆彡
内容は、2部に分かれています。
1部では、
『明治の日本のはじまり』というコトで、
・
福沢諭吉が『
学問のすすめ』を書いた目的
・
大日本帝国が義務教育を行った目的
・
大日本帝国が
日清戦争(や、その後のいくつかの戦争)を行った背景
について、
福沢諭吉の考えを紹介しながら、説明しています。
そして2部では、
『戦後日本の道のりと現代』というコトで、太平洋戦争後の日本と、周りの国々との関係について、書かれています。
ここでは、2部で取り上げられている話題の内、主に戦後賠償の話について、整理してみたいと思います。
まず、1945年8月、太平洋戦争が終わり、日本は米軍に占領されました。
太平洋戦争では、約310万人(人口の約4%)の軍人及び民間人(沖縄で約15万人、原爆で約30万人)が死亡し、約1500万人の民間人が空襲などで家を失いました。
沖縄戦の末期には、米軍に追い詰められた日本軍が銃を突きつけて壕や洞窟に隠れていた民間人を追い出したり、民間人を米軍の砲爆撃の中に放置したり、民間人に集団自決を迫ったりしたと言われています。
日本が占領したアジア各国の死亡者数は、日本の教科書に載っている(つまり、文部省が認めた)数字は、以下のとおりです。
・韓国・朝鮮=約20万(韓国政府は35万以上と主張)
・台湾=約3万
・中国=約1000万(中国政府は2000万以上と主張)
・
ベトナム=約200万
・
ミャンマー=約5万
・フィリピン=約100万
・マレーシア=約5万
・
シンガポール=約8万
日本が米国から独立したのは1952年4月。
サンフランシスコ講和条約によって、独立しました。
当時、世界は、米国と
ソ連を中心とした冷戦時代に突入していました。
そういった背景もあって、米国は、
サンフランシスコ講和条約で日本が独立する前(1951年)に、
日米安保条約を結び、日本が米国から独立した後も、日本に米軍の基地を残せるようにしました。
サンフランシスコ講和条約が結ばれたサンフランシスコ講和会議で、
ソ連は、米軍が日本に残ることに反発し、米軍の撤退と日本の
民主化、非
軍国主義化の保障を含む修正案を提出しましたが、この修正案を議題とすることを否決されたため、
ソ連、
ポーランド、
チェコソロヴァキアは、調印を拒否しました。
また、この
講和条約の14条には、日本に侵略された各国の日本への賠償請求権を放棄という内容が盛り込まれていました。
そのような条約の内容に不満があるとして、インド、
ビルマは会議を欠席しました。
インドネシア、フィリピンは、調印はしたものの、賠償に関する二国間協定を結ぶよう主張したり、賠償に向けた協議を直ちに開始するよう迫りました。
最終的に、フィリピンと
南ベトナムは賠償請求権を放棄せず、
インドネシアは条約を批准しませんでした。
また、当時、
朝鮮戦争中だった
北朝鮮、韓国、中国は、会議に招待されることもありませんでした。
では結局、日本の戦後賠償はどうなったのか。
まず、
ビルマ、
インドネシア、フィリピン、
南ベトナムの4カ国とは、個別に交渉し、1955年から1959年にかけて賠償を支払いました。
そして、韓国とは、1965年に
日韓条約を結んだ際、韓国への経済援助を行うことで、賠償問題を解決しました。
しかし、フィリピン、韓国、
南ベトナムは、当時、
独裁政権に支配されていたため、
日本が支払った賠償金や経済援助は、独裁政権が自由に使ってしまいました。
それだけではなく、日本の戦後補償に対する人々の不満の声も、
独裁政権によって弾圧されていました。
これらの国の人々は、独裁政権が倒れてから、日本に対して補償を求める声をあげることができるようになりました。
それに対して日本政府は、「外交的に解決済み」という姿勢を取り続けています。
そして、
カンボジア、
ラオス、マレーシア、
シンガポールの4カ国に対しては、1950年代後半から1960年代にかけて、各国への経済援助や技術協力を行うことによって、賠償問題を解決しました。
また、1975年に
ベトナム戦争が終わった時には、統一
ベトナム政府に無償経済協力を行いました。
しかし、経済援助や技術協力は、個人に対して行うものではないので、やはり、この場合も、各国で実際に被害を受けた方々が、直接恩恵を受けることはできませんでした。
少し年代が戻りますが、中国に対してはどうなったのか、というと、1972年の
日中共同声明で、
中国に賠償請求を放棄してもらい、日本は中国に経済援助を行いました。
日中の第一回首脳会談の前に、
周恩来首相は、以下のように述べています。
「日本
軍国主義者による中国侵略で、中国人民は巨大な災難に遭遇したし、
侵略戦争の結果、日本人民も巨大な災難に見舞われた。しかし、毛主席は昔から一握りの
軍国主義者と広範な日本人民を区別してきた。」
更に、日中首脳会談の場では、以下のように述べています。
「われわれが賠償請求を放棄するのは、両国民の友好関係を思う気持ちに発しており、日本人民を賠償の負担によって苦しませることを考えないからなのだ。」
つまり、
中国を侵略したのは日本の一部の軍国主義者たちであって、多くの日本国民ではないのだから、日本国民に負担をかけるような賠償請求はしません、ということです。
このようにして日本への賠償請求を取りやめた中国にとって、戦犯が祀られている神社を参拝するということがどのような意味を持つのかを考えることは、今後、中と日本の友好関係、信頼関係を築く上で、非常に重要だと思います。
以上が、日本が各国に対して行った戦後補償の対応です。
最後に、日本と
ソ連の話をしたいと思います。
日本は、
サンフランシスコ講和条約に調印しなかった
ソ連と、日ソ共同宣言をキッカケに、国交を回復しました。
そしてその際、
日本は、ソ連に対して、賠償請求権を放棄しました。
が、その後も、元シベリア抑留者の方々は、強制労働への補償と謝罪を要求していました。
それを受け、日本政府は、「国民個人からの請求権まで放棄したのではない」という表明をしています。
最後に少しだけ、引用します。
『日本政府は、アジアの民間からの補償請求には「国家間では解決済み」といいながら、自国民が被害をこうむったシベリア翌週問題では「国民個人の請求権は放棄していない」と表明したわけだ。
こんな態度は、ご都合主義をいわれてもやむをえない。
アジア各地から補償請求を要求している人たちから、「それなら、日本政府の言い分どおり国家間では賠償問題は解決済みだとしても、われわれ個人の補償請求権は認めるべきだ」といわれてもしかたがないといえる。』